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米国政府の最も重要な政治的概念は国家安全保障である。国家安全保障という概念は第二次世界大戦後に生まれ、1947年に制定された国家安全保障法により、国内及び国外、更に軍事政策を充実させる目的で安全保障協議会が設置され、当時CIAなどの組織が誕生した。第二次大戦の終焉から冷戦の終わりまで、この国家安全保障は米国政府の命題であった。この期間は、国家安全保障の強調のもとに、大統領の権限が最大限に拡大した時代であり、インペリアル・プレジデンシィ(帝王的大統領制) とも呼ばれている。これは、憲法で定められた範囲以上の権力を駆使する大統領政治という意味であるが、その象徴的な大統領にハリー・トルーマン、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソン、ロナルド・レーガン、及びジョージ・W・ブッシュなどが挙げられる。冷戦がピークに達した当時は特にこの帝王的大統領制の傾向が強く、米国の大統領は共産主義を封じ込めるためその政治力を乱用し、秘密の不法活動に関与した。その基盤になった政治思想は国家安全保障であり、今日重要な米国政治の根本原理になっている。

フランクリン・ルーズベルトは死亡する約2ヶ月前、イギリスのウィストン・チャーチル及びソ連のジョセフ・スターリンと戦後のヨーロッパ再構築について会談するため3首脳会談をおこなったが、このヤルタ会談として知られる三大強国協議は失敗に終わり、ソ連と米国間の相互の不信感と不認識が冷戦に進展したことは歴史家の間で認識されている。民主制のもとに各国が独立した資本主義経済構造の世界を目指す米国はソ連の共産主義拡大を攻撃し、一方、国益のためには東ヨーロッパの統制を望むソ連は米国の開発途上国支配政策を非難した。この緊張感が膨大するにつれて、世界は資本主義社会と共産主義社会で二分されたような状況になり、第三次世界大戦勃発の恐怖が蔓延した時代が1990年頃まで続いた。事実、ソ連は東ヨーロッパの多くの国、例えば、チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド、東ドイツなどを共産国として統制下におくことに成功していた。

1945年4月、フランクリン・ルーズベルトの死亡後、第33代米国大統領に就任したハリー・トルーマンは戦後の最も困難な時代に直面した大統領であった。また、新たに発明した原子爆弾を日本の広島と長崎に投下する命令を下すなど、歴史上最大の権力を駆使した大統領である。第二次世界大戦で敗れた国は、日本に限らず莫大な救済基金を必要としていたことはいうまでもない。

一方、アジア諸国にも共産党の手は伸び、1949年には中国が共産主義国の仲間入りをしている。このような危機感がつのるトルーマン政権下で国家安全保障の概念が生まれたのは、自由資本主義を信望する米国政府にとっては当然といえるかもしれない。自国の安全保障を確実にするため、また、共産党の侵入を防ぐため、戦争に敗北したヨーロッ諸国を再建することは急務であると感じたトルーマンは、マーシャルプランとして知られる経済援助プログラムを制定した。また、自由と安全を守るため、NATO〔2010年:28カ国〕として知られる政治的及び軍事同盟組織も結成した。これが、国際的危機管理の最初の始まりであり、この頃から次第に国家安全保障が強調されるようになった。

Free Photo: John F Kennedyトルーマンの政権は1953年まで続いたが、1960年代に入ると、冷戦の緊張は発展途上国のラテン・アメリカと南東アジアに移行していった。1959年、フィデオ カストロが社会主義を掲げ、バティスタ政権を倒したキューバ革命当時、キューバーから亡命したグループがカストロ政権を打破する目的で1961年4月に自国を侵入した事件があった。同年に大統領に就任したジョン・F・ケネディは共産党を封じ込める政策の中で、非常に強い国家安全保障の意識を持つ大統領であった。カストロはまさに、この国家安全保障を脅かす存在と考えたケネディは、キューバの亡命グループを支持するためピッグス湾侵略と呼ぶCIAの秘密工作を認可したが、準備不足のため無残な失敗に終わった。この秘密工作に失敗したケネディは、モングース作戦と呼ばれる新たな秘密工作でカストロの暗殺をCIAに命令していたといわれている。暗殺の危機を悟っていたカストロは経済及び軍事力援助を求めてソ連に急速に傾くようになり、キューバでのミサイル危機を引き起こす原因になった。

冷戦時代の東南アジアにおける最悪の戦争はベトナム戦争である。1961年から1962年にかけて、北ベトナムの共産党主義者が南ベトナムを侵略した際、ケネディはベトナムにおける経済及び軍事援助を拡大し、米国の軍事アドバイザーの数を増やしている。1963年のケネディの暗殺後、36代大統領として就任したリンドン・ジョンソンは引き続き南ベトナムに経済及び技術援助を行い、米国の軍隊の数を増やして著しく戦争をエスカレートさせた。また、1964年8月、トンキン湾で北ベトナムの魚雷船が米国の駆逐艦を襲撃した際、議会はトンキン湾決議案を通過させ、ジョンソンは戦争に勝利するという大義名分において署名した。これは、軍隊派遣の増大を意味していた。1963年末には17万だった軍隊数は、なんと1967年末には約50万まで増大した。

北ベトナムが南ベトナムの主な都市を攻撃した1968年1月の戦争の状況は、悲惨なものであった。このあたりから、米国市民の反戦運動が激しくなり、べトナム戦争も転換期をむかえた。国家安全保障どころか、ジョンソンの国内政策である偉大な社会を目指す構想はベトナム戦争のエスカレートとともに崩れさっていった。ベトナム戦争ほど、国を二分化し、物、人、金の資源を使い果たした戦争は過去に例がない。

ジョンソンの後継者として1969年に大統領に就任したニクソンは、ベトナム化として知られる政策に基づき、除じょにベトナムから米国の軍隊の数を減らす努力をしている一方で、中立国であるカンボジャを秘密工作として爆破することを命令している。このため、1970年にはインドネシア戦争がエスカレートしている。また、ニクソンは国家安全保障を脅かすかもしれないとの理由で、国防総省秘密報告書(ペンタゴン・ペーパーとして知られるベトナム戦争を密かに研究した資料をニューヨーク タイムスが出版しないよう画策していた。また、ニクソンは米国の歴史上、最悪の非合法的な政治活動であったウォーターゲート事件の関わりであまりにも有名である。このウォーターゲート事件は国家安全保障及びインペリアル・プレジデンシィの概念を最も分かりやすく示している例のひつとである。この事件で発覚した押し込み、盗聴、選挙運動違反、及びスパイ行為はすべて、1972年のニクソンの再選を手助けするための動機であった事が知られている。

問題となったスキャンダルは、民主主義の理念に基づき公平な選挙を展開しなければならないはずの複数の高官がもみ消しを行ったことである。事件前後の突然の辞任や解雇及び一連の取調べを見ていた米国市民は、ニクソンはウォーター・ゲート事件に最初から関わっていると確信していたため、二クソンは起訴されると予期していたが、その期待とは裏腹に、1974年8月、次期大統領に就任したジェラルド・フォードは簡単にニクソンを容赦したのである。

1980年代の中頃、レーガン大統領もイラン・コントラ事件として知られている秘密工作に関与している。この背景には1979年にニカラグワでサンダニスタと呼ばれる政治連合が革命を起こし政府を支配した際、コントラと呼ばれるニカラグワの反逆者グループがニカラグワを打倒しようと戦っていた。レーガンは大統領に就任した直後、サンダニスタは共産主義者の独裁政治を遂行していると主張し、コントラを援助するようCIAに命じたのである。それから数年後、議会はコントラ援助を禁止する法律を通過させた。しかし、ちょうど同じ頃、レバノンで数人の米国人がテロリストに人質にされた事件が発生した。レーガンは、人質を解放する手助けを依頼する見返りに、イランに軍事器材を売ることと、ニカラグワのコントラ・グループに軍事援助を与えることの二つの不法工作を認可したのである。このふたつの工作はイランで軍事器材の販売から得た利益をニカラグワの反逆者グループに投資するという点で接点があった。この事件も秘密に覆われた大統領の権力が暴露されたインペリアル・プレジデンシィの例である。

トルーマンからレーガンまでが冷戦時代の大統領であるが、最新の大統領で、インペリアル・プレジデンシィの素養が最も強い大統領が、ジョージ・W・ブッショではないだろうか? ソ連が崩壊し、冷戦の終焉とともに、共産主義撲滅の大儀名文がなくなると、今度はテロリズムとの戦いという名文で大統領の権力を乱用したのがジョージ・W・ブッシュである。ブッシュは非常に問題のあった2000年の選挙で当選し、第43代大統領に就任した。米国は2001年9月11日、歴史上最悪のテロリストによる攻撃を経験した。

ブッシュは、この同時テロの背後に、オサマ・ビンラディンとアフガニスタンのアルカイダ・テロリスト組織がいると結論を下し、アフガニスタンの支配組織である、タリバンにオサマ・ビンラディンを米国に引き渡すよう要求したが、タリバンはこれを拒否した。其の為、2001年10月、ブッシュはタリバンとアルカイダに対して戦争を宣告した。同年10月、ブッシュはアフガニスタンでの爆破活動を命令したのである。テロリズムに対する戦争は世界の注目を浴びたことは承知の通りで、オバマ大統領の認可により、20115月1日、オサマ・ビンラディンが、パキスタンのアバタバットで、米国の特殊部隊ネイビー・シールズによって殺害されたことで、テロリズムに対する戦争は転換期を迎えた。しかし、テロリストに対する国家安全保障政策は今日も存続している。

ブッシュ政権は、イラクのサダム・フセインが大量破壊武器を保持し、ビンラディンに提供していると国民に信じ込ませ、2003年にイラクに侵入したが、この隠れた目的はオイルであると見た専門家は多い。過去の歴史をみても、レーガンの後継として1989年に大統領に就任したブッシュの父親、ジョージ・ハーワード・  ブッシュ及びジミー・カーターもオイルは国家安全保障に関する重大事であると宣言している。ブッシュはこの国家安全保障を強調することにより、大統領の権力を拡大する目的で2001年にペイトリオット法(愛国者法)を成立させ、一般の市民、特に、外国人、移民などの国際電話、電子メール、及び郵便物さえ、モニターするよう密かに国家安全保障局(NSA)に命令した。米国市民の国際電話の会話や電子メールのメッセージの盗聴などは甚だしいプライバシーの侵害であり、2005年にマスコミが糾弾した際、ブッシュは9.11の同時テロに関与したテロリストを逮捕するため必要な手段であると、その正当性を強調した。このペイトリオット法は2005年末で期限切れになっていた為、この法を継続させるか否かで民主党と共和党、及び上院と下院議員間の紛争の的になっていたが、結局、オバマ政権下で継続されている。

ペイトリオット法に関しては国民の間でも賛否両論があるが、2009年1月に就任したオバマ大統領は、すでに2006年の上院議員当時からこの法を支持している。また、2009年12月で期限が切れるこの法を再度認可するよう議会に要求している。2009年9月16日の『ワシントン・タイムス』の記事によると、市民自由活動家のグループは、民主党の間で人気がなかったブッシュ時代のテロリズム政策を拡大させることになると、当時批判した。オバマ大統領がペイトリオット法を維持し、具体的に大統領の権言を強調した部分は、移動電話の盗聴、一定のビジネス記録の押収、及び単独で行動する不審な人物をモニターするなどの三項目が挙げられる。連邦政府は個人のプラーバシーを保護する点においては新たな追加修正を行う用意はあったようだ。オバマ大統領の対テロ政策は、大胆なビンラディン殺害を認可したことも含めて、国家安全保障を強化させる点でブッショ政権に勝るとも劣らずである。

連邦政府の国内の国家安全保障のシステムは、9.11の同時多発テロ後、ジョージW. ブッショ政権下で2002年に制定した国土安全保障法により、米国合衆国国土安全保障省が設定された。この組織下で、シークレット・サービスや米国沿岸警備隊など、以前から存在し、良く知られている機関が再組織されたことになった。また、同年に米国移民税関捜査局(ICE)が米国国土安全保障省下で再組織された。ICE は国内に約400及び海外に50の事務所があり、最も大規模な組織で、移民問題の他に、税関の取締りや国境での密入国の阻止、及び密輸など様々な国内及び国際犯罪の取締りを行っている。米国国土安全保障省は様々な組織で構成され、2001年11月に発足した機関には、テロリズム対策の一環として、運輸保安局(TSA)がある。空港などの安全対策に最善の対策を駆使するのがこの機関の役目である。

近代歴史にみる米国の政治と今日の外交政策の傾向性を分析すると、過去においては共産主義撲滅が国家安全保障を維持するための政府の中心政策であり、現在はテロリストへの戦いであるように、何らかの大儀名文を見出すことによって大統領の権力の乱用が正当化されてきたことである。オイルを自由にコントロールすることが、国家安全保障の隠れた外交政策のひとつであったと一般的に言われている。

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