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1865年12月24日はクー.クラックス.クラン(K.K.K)と呼ばれる米史上最も古い人種差別グループの組織が結成された日である。この組織は政治的動機の異なる多種のグループで構成され、主に白のマスクと衣装を身につけていたことが特徴である。1915年以降に台頭したK.K.Kが最も暴力的であり、黒人に限らず多種の人種およびグループを威嚇したことで知られている。K.K.Kは基本的には自己主義で非合法的な手段を用い、特に黒人に辛辣であったが、他の有色人種、移民、ユダヤ人、同性愛者、及び他の少数派に対しても差別し威嚇した。

1863 年1月、リンカーン大統領令による奴隷解放宣言が行われたが、黒人が自由を味わったのはつかの間である。 黒人が奴隷であった時代の奴隷制度そのものより、さらに卑劣な虐待が始まったのはその後まもなくの事である。自由な身になった黒人を奴隷制度と同じ地位に維持させようとする努力は南部の白人至上主義者の組織K.K.Kが台頭した1865年以降顕著になる。ある時期には言語に絶する殺人、虐待、誘拐、リンチ、脅迫などの事件が続発した。K.K.Kは、今日も存続しているが、極端に縮小しほとんど目立たない組織になっている。

最初のK.K.Kの出現は1865年12月24日、テネシー州に初めて秘密自警団組織が結成された時である。組織結成の目的は、白人が定める規則を維持し、黒人が経済.社会および政治的に独立し、権力を得ることを防ぐためである。1865年最初に結成された組織は、肉体的暴力を加えることより、黒人のみに投票税、知能テストなどを課すことで投票権を奪う事が主な活動であった。つまり、黒人の政治的平等性を拒否し、自由な投票を阻止し、元奴隷の政治的権利を妨害することが主な目的であった。しかし、1870年および1871年、議会は強制法案を通過し、K.K.K調査委員会を設置し、K.K.Kの法外な活動を捜査した。これは、黒人の投票を妨げることを禁止する法案制定を州に許可する法律である。また不当に人身の自由が奪われている者の身柄を裁判所に渡すことを命令する人身保護令状によりK.K.Kの勢力は著しく弱体化した。

1915年代にはK.K.Kは全米で再度急増し、その活動は活発になる。K.K.Kの偏見による基準に100%適合しない少数派は攻撃の標的になった。過激な活動に関与する移民に対する脅威が始まったのは19世紀の後半からであるが、1920年代は外国移民に対する警戒が拡大した時代である。連邦政府は、1921年には移民の数を限定する法律を制定し、1924年には 東アジアからの移民を禁止する国籍基準法 (NOA)を通過した。これは特に日本人および中国人に直接影響がある移民法であった。また、ヨーロッパからの移民も著しく減少させたが、北西部のヨーロッパ人は例外であった。外国人および移民排除主義の背景にはネィティビズムと呼ばれる民族中心的な風潮があり、K.K.Kの再現を促進した。

結論として、1865年に結成されたK.K.Kは1870年代には衰退するが、1915年頃までには再度南部の白人が組織を結成した。 北部および中西部の工業地帯にもそのメンバーの数は徐々に拡大し、1924年までには数百万人に達した。しかし、数年後には多数のスキャンダルが原因でK.K.Kの影響力は著しく衰退した。彼らは伝統主義を掲げ、聖書の創造説を信じ進化論を排除した。また、必要以上に外国人を嫌悪し、純粋な白人の血を受け継いでいない移民に対する差別はエスカレートし、黒人、ユダヤ人、カトリック教徒、および少数派を暴力的に威嚇した。それらの暴力はむち打ち、家宅放火、リンチなどである。 K.K.Kは外国人および異人種を恐れていただけでなく、K.K.Kの伝統主義に挑戦する者は全て敵とみなした。従って、同性愛者、異教徒、飲酒者を罪人として体罰を加えた。現在、K.K.Kのメンバーの数とその活動は極端に減少したと言われているが、南部貧困センターによると、全米に散在するK.K.K のメンバーは約5,000から8,000人程度である。1915年から1920年代に存在したと思われるグループはマスクを被らず(写真リンク) 堂々と行進している。

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