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1936年に旱魃地域のノース.ダコタを視察したルーズベルト大統領

1934年 6月4 日は、フランクリンD.ルーズベルト( FDR)が議会に旱魃救済資金として数千万ドルを配分するよう議会に要請した日である。1930年代は、世界経済恐慌に加えて、米国多数の地域で壊滅的な 旱魃と砂嵐に直面し、全米で大多数のアメリカ人が失業した歴史上最も悲惨な時代である。ルーズベルト政権の旱魃救済資金は多数の農民、特に貧困地の農民を救った。

ルーズベルトは1920年代および30年代に世界恐慌及びグレート.プレーンと呼ばれる地域で発生した旱魃の影響で、全米の25%は失業するという前代未聞の壊滅的な経済危機の時に32代大統領として1933年4月に就任した。1930年までには、米国の金融システムは崩壊し、大半の国民は預金を失っていたため、就任直後に着手した仕事は金融改革である。ニューディールと呼ばれる経済回復政策を打ち立て、1934年には株式市場を取り締まるため証券取引委員会(SEC)、1935年には農業安全保障局(FSA)を設立し様々な農業改革も行った。

ダスト.ボウル農村地

1930年代の初期、北東部及び中西部での失業率は50%以上、一部の地域では80%に達するという最悪の経済危機に直面していた。農業地域はもっとひどい状態であった。なぜなら、この頃から降雨量が着実に低下し、日照りに伴うダスト.ボウルと呼ばれる砂嵐が頻繁に発生した。ダスト.ボウルの主な要因は、地面の水分枯渇に加えて不安定なヨーロッパ方式の農業慣行であると言われている。コロラド、カンザス、モンタナ、ネブラスカ、ニューメキシコ、ノース.ダコタ、オクラホマ、サウス.ダコタ、テキサス、ワイオミング州を含む広大な平面地であるグレート.プレーンは最もひどい旱魃と砂嵐の影響を受けた地域である。

旱魃は少なくとも10年間続いたため、以前は肥沃であった大地は、再び降雨を見るまで事実上砂漠地のようになったことで知られている。荒廃した土地から収穫を期待出来なくなった多くの農家は、家と畑を放棄し西部地方に移転せざるを得ない状況になった。グレート.プレーンの人々は仕事を求めて自分の土地を離れた。この有名な歴史は、ノーベル文学賞作品であるジョン.スタインベックの1939年の文学『怒りの葡萄』に描写され、オクラホマなどからカリフォルニアに移転する人達がモデルになっている。

80年前の今日、FDRは約5,200万ドルの旱魃救済ファンドを議会に要請することで、壊滅的な被害を受けたグレート.プレーン地域に現金を支給し農民を救済することを提案した。これもFDRのニューディール政策の一部であるが、 FDRの農業改革措置はテナント農民を土地から追い払う結果となり、被害に直面した農家に繁栄をもたらすことはなかったとの批判もある。しかし、地元に残った人達は生きていく上で食物、水、家畜の餌、医療設備などが必要であった為、ルーズベルトの旱魃救済政策で支給された現金は特に被害の大きかった地域および蔓延した貧困地域の人々に役立った。更に政府は、農作物市場を運営し、農地改良の研究も実施することで、農業技術と管理の向上を目指した。

1930年代および40年代は中西部から西海岸への移動があったため、人口配分に大きな変化があった。西部の人口は著しく増大し、グレート.プレーン地域の人口は大幅に減少したことは言うまでもない。また、第二次世界大戦中および大戦後、南部の多くの黒人および白人は引き続き北部および西部に移動した為、カリフォルニアは最も人口が増大した州であり、1950年代までには約50%増大したと言われている。天災および人災のダスト.ボウルは米国の人口動態に変化をもたらした一因である。また、北部や西部の都会に労働力が集中したため、雇用競争と賃金低下の要因になった。一方、FDRの多種のニューディール政策は、多くのアメリカ人の威厳を回復させ、政府と大衆が密接に繋がった歴史上最も画期的な機能を果たした。

以下は有名な ルーズベルト政権のFSAによる記録写真

カリフォルニアに移住した家族

オクラホマ(1936年:農家)

オクラホマ(1939年:移動する家族)

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