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2月5日は1917年に大統領の拒否権を克服し、議会が論争的な移民法を通過した日である。1913年から21年まで当時28代目の大統領ウッドロウ.ウィルソンは進歩主義運動の民主党リーダーであったが、議会が通過した移民法に対して1916年12月14日に拒否権を行使した。その後、議会は2/3の投票を可能にし、ウィルソンの拒否権を覆すことに成功した。歴史上最も革新的で偉大な大統領の一人であったウィルソンがその移民法案を拒否した理由は、極めて不公平な論争的法案だったためである。当時アジアを含む世界の移民は大幅に制限された。

この移民法案は、同性愛者、犯罪者、身体および精神障害者、アルコール依存症者、一夫多妻者、無政府主義者、16歳以上の文盲者などの全ての移民を禁止した。これに加えて、最も論争的な部分はアジア領域および太平洋諸島の人々の米国移住を禁止したことであった。1917年、議会は中国、南および東南アジア、ロシアのアジア部 、アフガニスタン、イラン、アラビアの一部、米国が所有していない太平洋と東南アジアの島を移民禁止区域に指定した。中国人は1882年の中国人排斥法で米国への入国を禁止されていた為、早くから明らかな人種差別の移民法が存在していたが、1920年代も引き続き人種差別の移民政策は拡大し、1924年の移民法は日本人移民も禁止した。ウィルソンが反対した別の理由は、フィリピンのように米国と特別協定を結んでいた国を除いて、その法案は識字テストを要求していた為である。

1880年以来、米国に移住を希望する移民に様々な制限が適用されたが、1900年代初期には年間に100万を越えるヨーロッパ人が入国した年もあった。歴史家は移民の歴史を(1)植民地時代、(2)1775年から1820年、(3)1820年から1880年、(4)1880年から1924年、(5)1924年から1965年、(6)1965年から現在に至るまでの6段階に分類している。ウィルソン就任時代の1990年代初期は、圧倒的にヨーロッパからの移民が歓迎された。彼らは、中央、南、東ヨーロッパからの移民が多く、彼らの大半はカトリック、ギリシャ正教会の信者であった。イエール大学の歴史学者ジョンM.ファラガーによると、1905年から1914年までに1,000万人以上の移民が入国し、その75%は南、東ヨーロッパの移民であった。また、1924年に日本人を排斥する前の1890年から1923年までの期間には20〜30万の日本人が米国に移住した。日米間は1908年に「紳士協定」を結んでいる為、日本は米国への移民数を大幅に減少することに同意していた。一方、最初のメキシコからの移民の波動は1900年代初期に始まり、1930年代の世界恐慌時代前には約70万人のメキシコ人が米国に到着した。

人種差別に基づく移民制限は徐々に緩和されるようになったが、移民に対する抵抗は引き続き残っている。これは言葉、文化、肌の色、宗教など、異なるものに対する恐怖に基づく人間の心理的な影響が大きく、「外国人嫌いの感情」と呼んでいる。宗教や教育を含む社会的側面および経済的側面から移民に反対する論争の背後には「外国人嫌いの感情」が一部潜んでいることも否定できないと思われる。事実、米国政府は1882年に中国人、及び1924年に日本人移民を排斥した移民法を制定するが、第二次世界大戦後、アジア系移民は米国で重大な経済的役割を果たした。1990年代から、米国のアジア系アメリカ人は、教育および経済的側面で最も成功している記録が報告されるようになった。従って、現在でも稀に存在する米国人のアジア人嫌いは単なる人種差別というより、教育および経済的に成功している彼らに対して、競争力を恐れている側面もあるからである。

1910年及び1920年代の移民に対する保守派の否定的な見解により、移民を制限する努力が強化された。議会は1915年までに識字テストを採用し、1917年にはウィルソンの拒否権を覆し、その論争的な移民法を制定した。現在、不法移民に合法的地位を与えるオバマ大統領の移民法も、不法と合法の区別が存在しなかった1875年以前に比較すると、様々な制限をしているため、基本的には移民法の歴史のルーツを反映している。それにも関わらず、多数の保守派が引き続き人道的な移民改革法案の制定に抵抗を示す傾向は、本質的な側面で100年前とさほど変わっていないことを示唆している。

 

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