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1801年2月17日はトーマス.ジェファーソンが米国第三代目の大統領に選出された日である。 輝かしい経歴を持つエリートであり、偉大な建国の父の一人であるが、革新的で無神論者とも言わる反面、保守的でもあり人種差別的な側面があった。彼の最大の業績は大統領就任中より、むしろ、大統領になる前に独立宣言を起草したこと、及び人生の後半にバージニア大学を設立したことである。

ジェファーソンは1743年4月13日にバージニア州のアルベマール郡で生まれ、1762年にはウィリアム. アンド .メアリー大学を卒業した。その後1767年から弁護士になり、1769年から79年まで同州の政治家であった。また、1779年から81年まで知事を務め、1784年から85年まではヨーロッパの議会外交員の経験があった為、1785年から89年までフランス外交大臣を務めた。また、1789年から93年まで初代大統領ジョージ.ワシントン政権下で国務長官を務め、1797年から1801年1月まで第二代大統領ジョン.アダムスの副大統領であった。

独立宣言の起草は米史上で最も重要なジェファーソンの業績の一つであり、33歳でその著者として起用された。独立宣言以前は1774年から開始された13州の植民地からの代表者による大陸議会で政府は運営されていた。米国が合衆国として連邦会議に発展するのは独立宣言後の1781年からである。イギリスから独立する最終段階を迎えていた1775年、大陸議会はフィラデルフィアに結集し、ベンジャミン.フランクリン、ジョン.アダムスを含む他合計5名の候補者の中からジェファーソンは独立宣言を書く人物として選出された。彼の執筆能力が評価されていた為であるが、翌年、起草後数日間の論議を経て、独立宣言の文書は7月4日に承認された。

1797年にジェファーソンがアダムスの副大統領として就任した理由は、選挙人団数がアダムスの次に大きかった為であり、友人同士が密接に協力しあうことが最善であると信じたためである。しかし、初代大統領ジョージ.ワシントンから受け継いだ米国最初のフェデラリスト.パーティ(名義上だけの連邦党)がコントロールしている議会は、しばしばそのような協力体制を阻んだ。また、ジェファーソンは次第にアダムスがフランスとの戦争を望んでいることに気付くようになる。また、連邦党は1798年7月、米国に帰化する外国人の米国滞在期間を5年から14年に延長する事を含む「外国人治安諸法」を制定した事から、連邦党はBill of Rights(権利章典)を敬っていないと感じるようになった。これらはジェファーソンの失望と苛立ちの要因になり、1800年までには大統領選に立候補することを決意した。ジェファーソンの次の目標は大統領になり、上院議会を設立し「外国人治安諸法」は憲法違反であり、州の権利に違背するとして撤廃することであった。選挙が近づくにつれ、政敵はジェファーソンが反フェデラリストの候補者であると攻撃した。

100_1565ジェファーソンの邸宅:2007 年7月25日筆者撮影

しかし、ジェファーソンは1801年2月17日、ジェファーソニアン共和党と呼ばれた民主共和党(最初の共和党)の大統領として、全ての選挙人団数を獲得し圧勝した。この選挙で、別の候補者であったニューヨーク州の反フェデラリストとして知られていたアーロン.バーはジェファーソンの副大統領として就任した。ワシントンD.Cで 1801年3月4日に第三代大統領として就任した時、ジェファーソンは57歳であった。就任後まもなく、「外国人治安諸法」によって投獄されていた人達を解放し、陸軍と海軍の規模を縮小し、外交的な経費削減と減税を議会に要請した。また、ジェファーソンは米国の領土拡大に最も成功した大統領である。フランスからニューオリンズを売却することを促し、交渉の為ジェイムス.モンローをフランスに派遣した。ルイジアナ全領土を$1,500万で購入するためナポレオンとの合意に達した。就任一期目は平和と繁栄さらに領土拡大に成功したため、1804年の大統領選でも連邦党の対抗者に対して圧倒的な勝利を果たした。しかし、二期目は幾つかのスキャンダルに直面した。副大統領バーは、政敵であったアレクサンダー·ハミルトンを1804年7月に有名な決闘で射殺した。その後辞職し、私兵結成後、西部州を連合から脱退させることを強制した。ジェファーソンはバーを謀反人として逮捕することを命令したが、フェデラリストであった裁判長ジョン.マーシャルは、バーを無罪釈放した。

100_1563ジェファーソン所有の農園一角:2007 年 7月25日筆者撮影

ジェファーソンは、革新性と保守性を両方備えた大統領であった。国民の生活にはあまり関与しない小規模の政府を運営し、米国は農業を保持する農業国として留まるべきであると信じていた。また、人権の自由を支持しながらも、プランテーションの経営者であった為、多数の奴隷を所有していた。カリフォルニア大学バークレー校の民族学者でA Different Mirrorの著者であるロナルド.タカキは、ジェファーソンが1822年には267人の奴隷を所有し、積極的に奴隷の売買に関与し、奴隷に残酷な罰を与える能力もあったと述べている。また、肌の色の違いは劇的であるため、白人と黒人は「決して共存できない」と信じていて、黒人は知性において白人より「劣る」と信じていた側面もあったと指摘している。また、攻撃的なインディアンを追放することも提唱していたジェファーソンは、米国の人種差別の歴史にその爪痕を残した人物の一人であったとも言える。

しかし、彼は米国早期の偉大な建国の父の一人であったことも事実である。1809年の退職後から、バージニア州モンティチェロで農業、哲学、教育に勤しむ余生を過ごした。彼は人生の最終時期であった1816年から25年の期間に、建物の設計からコースの計画、教授の採用、学校の管理に至るまですべてを監督することで、バージニア大学を設立するという偉大な遺産を残した。バージニア大学は彼が死亡する前に開校したが、病気が悪化し83歳で死亡した時は偶然にも、独立宣言の承認から50周年を迎えた1826年7月4日であった。もう一つの奇遇は、友人および政敵であったジョン.アダムスも同じ日に死亡している。

 

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参考:The American Presidents : by David C. Whitney. New York, 1969.

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