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インディアン撤去法は19世紀の政治及び経済対立を明らかにしたアメリカの歴史上、最も異例で論争的な出来事である。イギリス及びヨーロッパからの移民がアメリカに移住する以前、チャロキー、クリーク、セミノール、チックソー、チョックトーの5族インディアンは元来アメリカ南東部に小さな部落を形成し、最も文明化した種族に属していた。彼らは、近親拡大家族の母系組織を土台とした社会を築いており、狩猟、商業、及び農業に依存した生活を営んでいた。1800年代の初期、チャロキーは民主的政府の単一民族を築き、憲法と法律を制定し、学校、教会、及び表音記号を用いた読み書きのシステムも創案していた。1820年代までには、様々なヨーロッパの文化を採用し、経済的に豊かになり次第に文明化していった。

その後、1820年の後半にチャロキーの人生を脅かす事件が勃発した。それは、ジョージア州のチャロキーの領土に金(ゴールド)が発見されたからである。金が発見された直後に、何千人もの白人がジョージア州に殺到しはじめた。新たに移住した白人達はインディアンを、政治的及び経済的に支配しようとし、金に対する物欲から、インディアンが保持する価値のある土地の確保を望むようになった。

1828年に7代目のアメリカ大統領に選ばれたアンドリュー.ジャクソンはインディアンの撤去を強く提唱した。1830年、議会はインディアンの撤去法を通過させ、ジャクソン大統領はインディアンがまるで敵であるかのように、また、チャロキー撤去法の利点を考慮し、何の躊躇もなく法案に署名した。この政府の動きを契機に何人かのチャロキーは自ら西部へ移住したが、大半のチャロキーは自分達の土地を離れないと決意し、アメリカ最高裁に訴えた。ジャクソン大統領は議会の強い反対を無視し、チャロキー及び他の部族は連邦政府の保護下において、ジョージア州に彼らの土地を保持する権利を有するとの最高裁の判決を拒否した。

ジャクソンの権限下でアメリカ軍部は撤去法の行使を開始した。チャロキーを含めた5族のインディアンは1830年代前半から後半にかけて西部へ向けて行進の旅を強制された。これは「涙の痕跡」とよばれ、後に有名になった出来事である。長く厳しい旅立ちの最中も、ミシシッピー川西部のインディアン領土に到着後も飢餓と病の為、多くのインディアンは死亡した。

この事件に先立つ1800年代の初期、第三代アメリカ大統領トーマス.ジェファーソンは、インディアンに鹿や水牛などを殺す狩猟を止め、生存を望むなら土地を耕し、家畜を養うことを学ぶべきだと提案していた。又、ジェファーソンは、インディアンは自らの政府をあきらめ、白人の文化を学び、結婚も含めて白人と融合し、団結することを提案した。これは、インディアンがヨーロッパ式農業を実践するなら、白人移住者と同じ権利と特権を与えることを意味していた。ジェファーソンが提案した文化の交流は、西部での白人とインディアンの友好的な相互関係が存在した前例を考えると、全く不可能という性質のものではなかった。しかし、ジェファーソンが購入したフランス領土、ルイジアナはインディアンの領土として使う意図があったと思われる。その後、アメリカ政府は多くのチャロキー.インディアンの領土を買収しはじめた。

ジェファーソンが希望したとおり、最も文明化していたチャロキーを無理やりミシシッピー.リバー西部のインディアン領土に追いやったジャクソンは、インディアンの独立国が同じ州の国境に存在するのは、不便な状況であるばかりでなく、州がそのような政治体制を支持できないので彼らの生存のため、また、闘争を防ぐためにはミシシッピー.リバー西部に移動させるしかないと考えた。もし、彼らが州の法律に従わず、自分たちの土地を離れないと主張すれば、彼らの生存は保証できないと考えた。これは、弱いインディアンが自らの領土に居残れば、最終的には理不尽な白人に全滅させられる可能性が大いにある為、選択の余地はない事を意味していた。

インディアンの撤去法が慣行された直後、当然多くの批判がなされたのはいうまでもない。明らかに、不法で不道徳な政策だっかからである。インディアンをこのような悲劇に追いやる代わりに、ジャクソンにもっと人道的な選択の余地はなかったのだろうか? 多くの国民は、インディアンの権利を無視し、法に反した行為であり残酷で非人間的な処置であったと批判した。このインディアン撤去法は、人間の欲、自己本位、及び人種偏見が根底に内在したものであり、異文化交流の進展を根底からくつがえしたものだと考える。その後、インディアンの人口はアメリカの歴史の中で激減していった 。

アメリカの歴史上、アフリカ系アメリカ人が最も辛辣な人種差別を体験している。この人種差別を正当化した憎むべき法律がブラック.コードであり、ジム.クロウ法である。このような法が存在しなければ、アフリカ系アメリカ人は今日まで続いている人種差別の被害者になることはなかったかもしれない 。歴史的に、政府が人種差別を正当化するような法律を制定すれば、人種差別や人種分離などの悪に対して無感覚になる土壌が築かれるからである。

奴隷制度が廃止された1860年代のアメリカ南部地方は、白人が元奴隷を実質的に統制するためブラック.コードという州法を制定した。細かい法の内容は州により異なっているが、基本的には地元の役人が権限を持ち、職についていない又は放浪している黒人を掌握し、罰金を課したり、罰金が払えない黒人を個人経営者に紹介したりしていた。この法は、黒人がプランテーションで働くか又は召使として働くこと以外、黒人が武器を所有したり、農業地を自ら所有したり、リースしたりすることを禁じていた。一部の白人は黒人の市民権を制限し、黒人を社会的及び経済的に劣った人種として扱ったのである。ブラック.コードは南北戦争後、殆ど南部の州で元奴隷の法的権利を奪うための策略であり、総体的な意図は、アフリカ系アメリカ人の自由をあらゆる角度から制限又は拘束することであった。このため、アフリカ系アメリカ人は地元を自由に離れることができず、昇給の機会もなく、 家族を分離させる年季奉公の仕事を強制された。また、女性を強制的に田畑仕事に追いやるなど、ほぼ奴隷に近い労働条件を設けて彼らを搾取した。1865年の公民権法及び憲法修正第十四条は、大幅にブラック.コードの悪習慣を減少させたが、水面下の社会的不平等を完全に無くすことは不可能であった。(続)

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