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教育現場で必要な英語力、英語の深さ、英語を公式語にする専門家の論争を含めた多種民族のアメリカ人の英語力の現状、及びメルティング.ポット及びマルチ.カルチャリズムの概念について考えてみたい。

一般的に、外国人がアメリカの大学で学ぶ為には相当な英会話能力が必要だと思われがちであるが、会話能力については、実際はそれほど厳格ではない。クラスメートや講師とのコミュニケーションは、標準的な会話能力があれば十分である。デイスカッションがないクラスでは殆ど英語を話す機会はなく、人前で話す必要があるクラスは数少ない。インターネット時代の教育は教授や講師に対し質問がある場合でも、Eメールを利用できる為、無理に話す必要はない。事実、クラスで時間を割くより、Eメールでのコミュニケーションを好む教授も多い。

しかし、ある程度英文教材を読みこなす能力および書きの能力は要求される。専攻により、多少の差はあるが、カリフォルニア州立大学は、学生にあらゆる文献を読む機会を与え、内容を分析し批判する能力の向上を目指している。従って、人文系、文化系の学生はどのクラスを受講しても、必ず数回はエッセイの研究課題がある。数枚程度のエッセイを書く場合でも、複数の文献を参考にし、文献収集のためのリサーチに時間を要するため、外国人学生はアメリカ人の学生と比較した場合、知識よりもスピードのハンディがある傾向にある。従って、アメリカの学生と同じように1セメスターで4~5科目受講すると、相当な時間との葛藤をすることが多い。

もちろん、勉強の基準をどこにおくかで個人差がある。例えば、単位を取って、とにかく何とか卒業することだけを目的とするのか、あるいは、どの科目もAの最高点を取り、名誉学生として卒業したいのかにもよる。私の印象では、殆どの学生は成績を気にせず、とにかく各々のクラスに合格して早く卒業することを目指す。名誉学生を目指す場合、大雑把な勉強の仕方ではAどころかBさえ取得する事は困難である。質の高い勉強を志す生徒は読書やリサーチに時間をかけるため、1セメスターで受講する科目はせいぜい2~3科目程度が限度ということになる。長期的戦略で楽しみながら学ぶという姿勢を貫き、学ぶことによって新たな視野を広げることが新鮮な感動につながる。

読むことや書くことは好きだが、たとえ母国語でも会話そのものが苦手な性格の人はキャンパスでは孤立しがちである。しかし、こういうタイプの人こそ、カリフォルニア州立大学での留学は成功する可能性がある。私はアメリカ横断旅行でアメリカに永住する多くの日本人に出会う機会があったが、彼らの中には、アメリカに永く住んでいても英会話能力が無い、又はなかなか上達しないと嘆く人たちが意外に多いことに気付いた。話すという行為そのものはパーソナリティに無関係ではなく、英会話能力は英語の理解力とは別の次元のものであると思う。

事実、実際はアメリカで生まれた学生でも、英語を話す事を得意としない学生は沢山いる。大学のキャンパスで、ある女学生とお互いに声をかけあうようになったことから、親しく会話をするようになった。ある日、私は日本からの移民学生であり、発音に日本語訛りがあるため人前で話す事には抵抗があると語った。それに反応した彼女は不安そうな面持ちで、彼女の家族は彼女が生まれる前にメキシコから米国に移住したため、英語を話さない両親に育てられたと語った。スペイン語の家庭環境で育ったせいか、英語はあまり得意ではないと話していたのを今でも思いだす。

その当時の私には意外だったが、時が経過するに従って、そのような学生は彼女だけではないことが分かってきた。クラス内では英語を話す彼らは、家庭内や同民族の仲間とは自国語で話している光景を頻繁に目にするようになった。祖父母や両親を移民に持つ若い世代は、英語を話すより、母国語で話すほうが気楽で自然だと言う。彼らが話す英語には幾分アクセントがあり、白人の発音とは多少違いがあることが特徴である。キャンパスや他の公共施設で、二ヶ国を話す学生は私のような移民学生だけではない。多くの学生は英語の他に、スペイン語、中国語、日本語、ポルトガル語、ヒンズー、その他多くの語学をクラス以外の場所で語っている

完璧な英語力を備えていない移民の心理的なマイナス要素は、アメリカ社会で孤立しがちになることである。移民が話す英語はアクセントや発音がネイティブの英語とは微妙に異なるため、敬遠する人が多い。一方、私が出会った多くの教養のあるアメリカ人は、移民に全く抵抗を示さない傾向がある事に気付くようになった。私はこの経験を通して、多様な民族文化をスープにちなんで、真の教養人は、スープの材料が多いほど美味しい味がでるということを理解していると思うようになった。しかし、英語をネイティブのように自然に話さない移民を敬遠する人たちと、他民族を「材料が多いほど美味しいスープができる」と受け止める教養のある人たちの違いは一旦なんだろうと長い間思っているうち、ふとあることに気付いた。

それは、英語の深さによるためである。一般のアメリカ人は、生まれ育った環境で、限られた表現方法しか学んでいないため、耳慣れない表現は、即座に理解できない傾向があり、彼らとは違う英語を話す人とのコミュニケーションは好まない傾向がある。逆に、語彙力や表現力の豊かな英語を学んだ教養のある人は、外国人や移民が話す英語にも問題はないようである。確かに、英語は奥が深い。同じ意味でも、場合によって様々な単語や表現がある為、英語は幅広く勉強する必要がある。例えば、「馬鹿」という英語の表現には、驚くほど、多様な表現がある。Stupid、foolish、unintelligent、moron、asshole、Jerk、dumb などは一般的だが、imbecile、anserine、boneheaded、dopy、dull、fatheaded、loggerheaded、lumpen、goosy、obtuse、soft-witted、 wooden-headedなどは一般のアメリカ人には知られていない。

また、英語の発音や語り方についても、教授やニュースキャスターなど、話すことをプロとする人達と一般のアメリカ人とは大きな差があることは日本で英語を勉強している人口層の間では理解されているはずである。洗練されたプロほど、短縮された発音の英語は使わない。驚くほど早口で不明瞭な英語を話す人は十代、二十代に多い。また、強いアクセントや微妙な発音の違いのある英語を話す移民とコミュニケーションを図るとき、聞き手は相手の言っていることを理解しようとする忍耐力と誠意が必要である。しかし、一般の人はよほど親しくならない限り、相手に聞き返す勇気と忍耐力はないし、それを要求することもできない。コミュニケーションの拙さから、結果的に移民は疎外感を味わうか、同じような境遇の仲間としか接しない傾向が多々あり、人種差別や偏見の土壌になる場合もある。(続)

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