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1963年日6月11日、ジョン.F.ケネディは、2人の黒人学生の大学入学を強烈に反対したアラバマ州知事の人種分離政策に対して前代未聞の挑戦を果たした。ケネディはこの日、その挑戦に勝利した直後の記者会見で、黒人に対する差別を排除するため、公民権法の制定を議会に要請する旨の歴史的な声明を発表した。ケネディは歴代の大統領の中で最も人種差別と戦い、公民権法の基礎を築いた最初の大統領である。

アラバマ州は、人種分離は憲法違反であるとする1954年5月のブラウン対教育委員会裁判での最高裁の判決以来、人種分離政策を維持していたほぼ最後の州である。同州知事のジョージ.ウォレスは人種分離を擁護し「今も分離、明日も分離、永遠に分離である」と述べた一節は有名である。永遠の人種分離を主張し、黒人学生をアラバマ大学に入学させることに猛烈な反対をしていた。一方、敬虔なカトリック信者であるケネディは、人種分離は不道徳であると考えていた為、 ケネディとウォレスの間で熾烈な対立があった。ケネディは当時司法長官であった弟のロバート.ケネディにウォレスと交渉させたが、成功しなかった。また、地元の経済界および政界の有力者にもウォレスを説得するよう要請したが効果はなかった。更に、連邦地方裁判所はウォレスに黒人学生の入学を許可するよう命令したが、知事は裁判所の命令も無視した。

アラバマ州タスカルーサの大学に入学するため、2人の黒人学生が講堂に入る歴史的な6月11日、大勢の記者やカメラマンが建物の前に溢れていた。ウォレスは黒人学生が講堂に入ることを阻止するため、ドアの前に立ちふさがり演説を行なった。J.F.Kはアラバマの州兵を連邦化し、ウォレスの立ち退きを命令したが、ウォレスも引き下がらない為、大統領布告を発行し、連邦裁判所の命令に従うよう要請した。ホワイトハウスに待機していたケネディは、現場で様子を視察していた司法副長官のニコラス.カッツェンバックと電話で連絡を綿密に取り合い、事の成り行きを細かく把握していた。ケネディは、ウォレスがドアの前から引き下がることを拒否した瞬間、大統領布告を発行し、知事が命令に従うよう圧力をかけた。更に、アラバマ州兵の指揮を国防長官に認可するため大統領令を発令した。

このエピソード後、ケネディは大統領執務室から 歴史的な公民権声明を発表した。そのスピーチは、 「脅威と挑戦的な声明」からアラバマ大学に入学する資格ある二人の黒人を保護するため国家警備隊を動員したことを伝え、「アラバマ北部地区の連邦地方裁判所の最終的かつ明確な命令を実行するためである」ことを国民に伝えた。また、ケネディはこのスピーチで、米国民に人種分離と戦っている公民権運動は道徳の問題であることを訴え「私たちは主に道徳的な問題に直面している」と述べた。また、それはアメリカ憲法である経典のように古く、リンカーン大統領が100年前に奴隷を解放した時以来、米国市民には完全な自由はなく、「不平等の絆から解放されていない」とエモーショナルに語った。また、「この国のために、その約束を果たす時が来ている…..議会が行動する時である」と述べ、「議会だけが提供可能な措置がある」として公民権法を制定するよう請願した。

1963年6月11日のジョン.F.ケネディの毅然な行動と公民権法請願のスピーチは公民権運動の最も画期的なステップであった。州兵は連邦政府が指揮したため国家警備隊としての役割を果たした。ウォレスは遂に敗北を悟り、講堂のドアの前から去ったが、この時詰めかけていた報道陣は一部始終を記録した。三日後、3人目の黒人学生は妨害を受けることなく入学に成功した。J.F.Kはこのスピーチから6ヶ月以内に暗殺されるが、彼の意志を受け継いだ後継者のリンドン.ジョンソン政権下で1964年7月2日、公民権法が制定された。1964年の公民権法は全ての州および地域で義務化されていた人種分離を実質的に終える結果となった。その結果は 「全ての人間は平等に創造されている」と述べ、人間としての道徳を叫んだジョン.F.ケネディの意志を鮮明に反映したものであり、J.F.Kは公民権運動の葛藤に直面した最初の大統領であることを歴史は伝えている。

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