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1916年2月11日、社会活動家、作家、アナキスト及びフェミニストとして知られるエマ.ゴールドマンは産児制限運動を展開した為、コムストック法違反で逮捕された。今日はその日からちょうど100年目を迎える。ロシア系ユダヤ人の移民として10代で米国に移住した彼女は罪の無い労働者が有罪判決を受け死刑に処された事件を知り、米国に深く失望した。また、多数の死亡者または負傷者を出したアンドリュー.カーネギーが所有する鉄鋼工場の歴史的な組合紛争で犠牲になった労働者を哀れみ、復讐を試みた友人に深く関与した。ゴールドマンは2度逮捕された後、ロシアに強制送還されたが、北米とヨーロッパで生きながら、言論と愛の自由、女性の投票権など多数の課題についての執筆活動を続けた。ゴールドマンは動乱の時代に波乱の人生を生きた女性である。

1869年6月27日、リトアニアでロシア系ユダヤ人家族の子女として生まれ、皇帝アレクサンドル2世が暗殺された数ヶ月後1881年に家族と一緒に東プロイセンおよびサント.トペテルブルクに移動し、そこで教育を受けた。1885年に移民としてニューヨークに移住し、言論の自由、労働者の権利、8時間労働、自由な愛、産児制限による家族計画の提唱者になった。しかし、この産児制限を公共の場で講演することを計画したため、コムストック法令違反によりNY市で逮捕された。コムストック法は米国郵便検査官アンソニー.コムストックの提唱により、避妊および中絶情報も含めて猥褻および扇情的な物質、情報、文献の販売、郵送、配布、電話での流布、及び提供を禁止するため1873年3月議会が制定した連邦法である。

ゴールドマンは10代の頃、ロシア革命運動に影響を受けた。自由対等の社会 、一般の人々がすべての問題を地球上で解決することができるユートピア、如何なる犠牲を払っても帝政政権を除去する思想に魅了された。1885年米国に移住し、NY市のロチェスター繊維工場で働いていた彼女は、退屈な作業、同僚の不幸な結婚生活などの現実に失望した。米国移住1年後、シカゴのヘイマーケット広場の爆破事件で証拠がなく、被告人にされた複数の労働活動家の裁判、有罪判決、および処刑にショックを受けた。ゴールドマンは、アメリカは彼女が「最も失望的であることを証明した」と宣言した。ゴールドマンは1887年に結婚するが、1年未満で無力な夫と離婚した。1889年彼女はロチェスターのユダヤ人社会および他の家族を残し、一人でニューヨーク市の南東に移転した。その後、ニューヨーク市でドイツのアナキズム運動に参加し、才能ある編集者で雄弁家のヨハン.モーストおよび彼女の人生で最も重要な人になるアレクサンダー.バークマンに出会った。

1892年6月ペンシルベニア州ホームステッドの鉄鋼工場で労働者との紛争が発生した当時、カーネギーが主な所有者であったホームステッド工場の支配人ヘンリーC. フリックは賃金を削減し、国で最強の組合の一つであった鉄鋼労働者の合同協会を破壊すると決定した。カーネギーはフリックの決定を支持し、工場を閉鎖するよう命令した。この歴史的紛争は暴力に発展した為、多数の労働者は死亡または負傷した。同年、バークマンは労働者に対する凶暴な取り扱いに復讐するため、ヘンリーC. フリックの暗殺を企てた時、ゴールドマンはバークマンを影で援助した。これは暗殺未遂事件で終ったが、バークマンが14年間刑務所に服役している期間、彼女は講義の経歴を積み重ねた。1901年、大統領ウィリアム.マッキンリーは自称アナキストに暗殺された。暗殺者のレオン.チョルゴッシュは、ゴールドマンの講義の一つに触発されたと述べた。ゴールドマンは 「アナキストとして、私は暴力に反対しています」と述べた。しかし、人生を通して理論的には暴力に反対し、国家と統治のクラスに対する暴力行為には責任転嫁することで実際には暴力を擁護することもあった。

ゴールドマンは1906年から1917年の期間に論争的なアナキストの雑誌Mother Earth を出版した。1916年2月11日、産児制限運動の一貫として避妊に関する情報を流布した為逮捕された。 特に貧困の女性による希望しない妊娠には様々な悪影響があると考えていたため、避妊を奨励していた。この時、彼女は数週間拘置所に拘束されただけであるが、第一次世界大戦中の翌年、反戦運動にも関与した。彼女は軍隊のドラフト制度下で登録を強制される事に抵抗した人々を擁護することを企んだ容疑で逮捕された。2年間服役した後の1919年、彼女はロシアに強制送還された。後半の人生で、彼女は資本主義、軍国主義、言論の自由、無神論、同性愛、女性の投票権など多数の課題に関する執筆活動および講演活動を展開した。1923年にはMy Disillusionment in Russiaを出版し、1931年及び1934年に著作Living My Life の二巻を出版した。彼女は1925年7月スコットランド系イギリス人のアナキストと結婚し、フランス、カナダなどに旅行した。1933年には内容に関係なく彼女の伝記に基づく事を条件に米国で講演することを許可された。ロシア、 北米、ヨーロッパを転々とし、1940年5月14日トロントで脳卒中により他界した。ゴールドマンは70歳で永遠に帰らぬ人となった。100年後の今日も、個人の選択の権利より宗教の教義を重視する米国多数の大統領候補者は女性の産児制限、特に中絶に反対している。

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