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奴隷解放、南北戦争、再建を先導し、歴代大統領の中で最も動乱の時代に生きた指導者はエイブラハム.リンカーンかも知れない。リンカーンは1865年4月14日ワシントンDCのフォード劇場でジョン.ウィルクス.ブースに頭を後部から射殺された後、約10時間生存した。しかし、介護も空しく翌朝他界した。4月15日は、米史上最初に暗殺された大統領であるリンカーンが151年前に劇的な死を遂げた日である。ブースは何故リンカーンを暗殺したのか?

ジョン.ウィルクス.ブースは1838年5月10日メリーランド州で19世紀著名な演劇家族に生まれ、1860年代有名な舞台俳優であった。南部連合に同情的であった為、南北戦争の終焉を促進した南軍の将軍ロバートE.リーが降伏した5日後にリンカーンの暗殺事件が起きた。ブースの暗殺は奴隷制度廃止の提唱者であるリンカーンに対する恨みであり、計画的な犯行であった。リンカーンを誘拐することから、最終的には副大統領を含む他複数の政治家も殺害することを企てた。彼は複数の協力者の援助を得て、数回リンカーンの誘拐を企てるが全て失敗に終った。最初の誘拐はフォード劇場でロープを利用し、リンカーンを捕らえる計画であったが失敗 した。二回目は3月17日に馬車で旅行する予定であったリンカーンは旅程を変更した為、この策略も未遂行に終った。

4月初旬、南軍の壊滅的な敗北を見るにつれ、ブースのリンカーン暗殺計画はエスカレートした。4月9日、ロバート.リー将軍はアポマトックス裁判所で降参を宣言した。その二日後、リンカーンはホワイトハウスのバルコニーから勝利のスピーチを行い、国を再建および敗北した南部連合国を米国連合に戻す幾つかの計画を概説した。また、この戦争で米国連合の為に戦ったアフリカ系アメリカ人の投票権を拡大する意志があることを表明した。更に、南部州は識字能力のある黒人の投票を促進させることを希望していると語った。この声明はブースを益々激怒させた。

ブースがリンカーンを殺害した理由は、個人的な敵としてリンカーンに対する異常な強迫観念のようにものがあったと分析されている。ジョージ.メイソン大学の歴史家クリストファー.ハムナーによると、ブースは南北戦争中、驚異的に成功し、豊かな生活とキャリアを楽しんでいた。1864年当時、北部の家族は平均$300の収入に対して彼は$20,000 を得ていた。彼は南軍および奴隷制の猛烈な支持者であり「リンカーンが憲法を廃止し、彼の最愛の南部を破壊することを決定したと信じていた」為、1864年11月リンカーンが再選された時から誘拐する計画をたて、その為、舞台俳優業も諦めるほど没頭し、誘拐の準備に$10,000を支出した。

4月14日、ブースは数ヶ月後に死刑を宣告される運命になる複数の共謀者の援助を得て、家族及びその他幾人かの議員の家族とワシントンDCのフォード劇場の舞台より高い個室に侵入することに成功した。その場所で演劇を観賞していたリンカーンを後部から銃射した後、連邦兵に射殺される26日まで逃亡していた。約10,000の連邦兵および警察は前代未聞の最大規模の暗殺者追跡を実施した。この暗殺事件は、国民に劇的なショックを与えた。数百万人の哀悼者はホワイトハウスからワシントンDCにかけて1,700マイル(約2,700Km)の長さのラインを作ったと言われている。南北戦争は南部が戦地であった為、サウス.キャロライナ、ジョージア、バージニアなどは壊滅的な経済的崩壊に苦しんだことは言うまでもない。

リンカーンおよび議会の「再建」は単に戦争で破壊された建物及び道路の復興だけでなく、南部連合州を連合に戻す北部の政治的努力を意味する。総体的にそのプロセスは北部の適切な線に沿って南部を再建し変えることを計画したものである。これは各方面からの反対があった為、議会が分裂するほど多数の政治的問題があった。非奴隷の工業化を目指す北部とプランテーション経済による奴隷制度に依存していた南部は社会的、経済的、および政治的に米国を二分し、その統一を内戦の結果に求めたことが米国の最も悲惨な歴史のひとつである。奴隷制度を強く支持し、高所得の仕事を犠牲にしてまでリンカーンを殺害することに固執したブースは、黒人の投票権を含む政治的参加に強く反対していた為、その南部軍が敗北したことが彼を狂人にしたようである。

 

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